県議会の沿革/福島停車場事件
明治44年 福島停車場事件
明治40年、府県制施行後5回目の県会議員選挙は、任期満了によって9月に行われた。その結果、憲政本党23名、政友会15名が当選した。
憲政本党は依然多数を占め正副議長、参事会員を独占したが、この選挙で政友会は議席を3倍に増やし、後日の議席数逆転の基礎をつくりあげた。
明治44年5月には、衆議院の総選挙が行われて、国政において政友会は大勝利を納め、212名の当選者を出した。憲政本党の後身、立憲国民党(明治44年3月結成)は、87名にとどまった。
本県選挙では政友会が5名当選し、立憲国民党4名を逆転、常勝を誇る立憲国民党の領袖、河野広中でさえかろうじて次点との差わずか34票で最下位当選に甘んじなければならなかった。
このことから、立憲国民党は結束して県議選に当たった。明治44年9月、任期満了に伴う県会議員選挙で、立憲国民党(憲政本党)は26名当選、政友会は12名、准政友1名という結果で、立憲国民党は絶対多数となった。ところが、臨時県会を開くに先立ち、立憲国民党に大分裂騒ぎが起こった。
福島停車場
松葉館
いわゆる福島停車場事件である。立憲国民党は河野、平島を直系とする国民党幹部派と非幹部派に分かれていて、非幹部派はいつも不平を持っていた。特に役員改選のたびに紛糾して絶対多数を擁しながら不安定な状態を続けていた。一方、政友会は、役員選挙はもとより自党の建議はいつも否決され、少数党の悲哀を味わっていた。そこから抜け出すため虎視眈々として反対党の内紛を期待し、それに乗ずる機会をねらっていた。
たまたま、役員選挙に不平を持つ立憲国民党議員8名に好餌を与えて引き抜こうという作戦を立てた。好餌とは、これら立憲国民党の不平組に議長、副議長、参事会の役員を約束するというものである。8名が政友会につけば1名の逆転になる。工作は成功し、8名の議員は東京へ逃避して、 県会役員選挙まで東京に潜み、当日帰福するという作戦であった。
脱党組は、一挙に政友会に入党するのを遠慮して「県政革新会」の名目で政友会に同調することを約束し、議長、副議長の割り振りまで行った。
一方、立憲国民党は、25日の県会開会を前にして、23日に「花水館」という旅館に勢揃いすることにした。ところが8名の議員が集まらない。にわかに狼狽して八方手を尽くして捜査した結果、8名の不平組は政友会と気脈を通じ東京にいることがわかったのである。
立憲国民党の幹部は、8人が議場に入る途中を要撃して、1人の議員を奪取する計画を立て、100名の壮士を集めて福島駅頭に迎え撃とうと準備した。立憲国民党は河野首領をはじめ「松葉館」に陣取り、一方、政友会は「河野屋旅館」に柏原代議士らの幹部がそろって、福島駅頭には殺気がみなぎった。
県会開会の当日、政友会と立憲国民党脱党組合わせて20名の県会議員は、わざわざ上野から常磐線で来て、岩沼で乗り換えて、福島駅頭に正午過ぎに着いた。
立憲国民党は、歓声を上げて改札口に殺到し、1人の議員を人力車ごと奪って「松葉館分店」に監禁してしまった。政友会は1名減で少数派に転落し、意味をなさなくなった。
10月31日の県会が開かれ、仮議長となった菅村太事が壇上に立つと、政友会派の議員が壇上に殺到し、蹴る、打つ、殴るの大乱闘となり、菅村はのど締めにあい、睾丸を蹴られ、議長席から引きずり落とされた。
大芝内務部長は停会を命じ、役員不成立のまま散会となった。その後も立憲国民党は内紛が続き、役員の独占ができず、政友会から2名を参事会員とすることで妥協ができた。
この「福島停車場事件」は、当時全国的に有名になり、最年長者を持って仮議長とするよう府県制を改正し、また、参事会員を1年交替と改めたのは、この事件に鑑みて考慮したものといわれている。
知事の議会停会命令
(明治44年10月31日)