ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
ホーム > 組織でさがす > 国際課 > 地球探検 パラグアイ共和国 廣瀬靖夫隊員 11

地球探検 パラグアイ共和国 廣瀬靖夫隊員 11

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月1日更新

 地球探検

パラグアイ通信(11)

   先日たまたまパラグアイで最初の国立公園イブクイ(首都アスンシオンから南東150km)へ小旅行に行ってきました。

   この旅行でイブクイ国立公園の近くにある製鉄所の遺跡博物館を訪れてびっくりしました。パラグアイは南米の中では最貧国の一つです。現在ほとんど何の産業もない国であるのになぜ製鉄所があったのか不思議でした。博物館を見てゆくと1850年に創業とあり、高炉に風を送るのに5m直径の水車の動力を利用するなど当時としては最新式のものだったと想像できます(写真1)。日本は幕末、鎖国の時代であり、日本には本だけの知識から作られた反射炉が伊豆韮山にあったのですが、パラグアイのほうが進んでいたでしょう。

   ではなぜこれが造られ、そして今はないのか歴史を調べてみました。1844年にカルロス・ロペス初代大統領が就任して今までの鎖国政策をやめ開放政策を採り、ヨ-ロッパとの交流を進め1850年には南米最初の製鉄所を創業、1961年には鉄道が開通しています。またパラグアイの人口推移を見ると(図1参照)この時代、1845年ごろより1860年ごろまでの15年間ぐらいの間で人口が4~5倍と急激に増加していることが分かると思います。このときがパラグアイの黄金時代でした。日本よりも先進国で、南米第一の繁栄した国だったらしいです。

   ところが、この繁栄を好ましく思わなかった英国が、ブラジル・アルゼンチンなどを焚きつけて戦争になったというのです。ブラジルの教科書にはパラグアイの膨張政策を阻止するため、パラグアイ側は当時の友好国ウルグアイに求めていたモンテビデオ港を確保するためだったようです。そしてこの戦争は、初代大統領の長男フランシスコ・ソラ-ノ・ロペス(マリスカス・ロペス)が大統領になって2年目の1864年に始まり、1870年に息子ロペスが戦死するまで5年間以上も戦っていたのです。この戦争はブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ同盟と戦ったので三国同盟戦争(三国戦争、パラグアイ戦争)と呼ばれています。

   その結果は。?惨めな・悲惨な敗戦に終わったのです。国土は半分近い45%も割譲され、人口は戦前の130万人が、敗戦後23万人にまで激減したのです(図1の人口データ表)。しかも、成人男性のほとんどがいなくなりました。 人口が1月5日~1月6日に激減するほどの敗戦を味わい現在もその尾を引いていることを考えると息子ロペスは、軍人としての節は通したかもしれないが、「政治」として見れば大失策をした政治家であり、ここからいろいろの日本への教訓が浮かんできます。

   選挙で選ばれるにしても世襲政治家というものの危うさはないだろうか、日本の政治家の世襲議員の多さ、世襲首相が次々と政治を投げ出すさまを見ても危険な兆候ではな

いだろうかと!

   ここパラグアイにいると良く日本のことが見えてきます。国民がしっかりしなければと遠くにいて思うのですが?

製鉄所の遺跡 写真1

1850年から1869年にかけて操業されていたパラグアイ製鉄所の遺跡 (現在博物館になっている、奥のレンガの建屋の中に高炉跡と空気を送るために使われていた水車がある)

人口備考
15360植民地化
177596,000 
18110独立宣言
1828250,000 
1852300,000 
1857800,000 
18611,300,000 
1864~18700三国戦争
1872231,000 
1886263,751 
1887329,645 
1899635,571 
19822,966,541 
19924,111,991 
20004,936,064 

           図1

パラグアイの人口推移

パラグアイの人口推移 (1775年から1899年までのデータはカトリック大学図書館の「三国戦争前後の人口」 (La Poblacion del Paraguay Antes y Despues de la guerra, Gabreiel Carrasco)より、他はインターネットより)

廣瀬 靖夫 (シニアボランティア 環境工学)