地球探検 パラグアイ共和国 廣瀬靖夫隊員 20
パラグアイ通信(20)
今から73年前の1936年(昭和11年)に試験入植地として、首都アスンシオンから南東へ約130kmのところにあるラ・コメルナと言う所に日本人入植者が入りました。先日そこへ小ツアーで行ってきました。そしてたまたま、小学生だった時に長野から家族と一緒にこの地にやってきた一世の人の話を直接聞くことができました。
ブラジルへの移民はその30年ほど前から始まっていたので、ブラジルから開拓指導者が日本政府の依頼でこのラ・コメルナに来たそうです。原生林の開墾は困難を極め、指導に来たはずのブラジル移民者が「ここは大変なところだからあきらめた方がいい、ブラジルへ帰る」と何人かのパラグアイ移住者をともなってブラジルに帰ってしまったそうです。
第二次世界大戦のさなか、パラグアイに来た移住者はあまり条件が悪いので、集団移転を考え決起集会を開いたところ、チリかアルゼンチンの日本の大使館員が来て(そのころパラグアイには日本の大使館がなかった)、「君たちは銃を持って戦ってはいないが、戦争と同じだ。日本のために頑張ってくれ。」と説得されたのを子供ながらに覚えていると言っていました。
その説得にもかかわらず、何人かがチリやアルゼンチンへ移転していってしまったそうです。入植して何を作るかで悩んだそうで、いろんな作物を試験植えして、亜熱帯ではダメと思われたブドウではあるが、品種改良された暑さに強いのに挑戦して当たったそうです。ある時期、ブドウ酒の原料としてのアルゼンチン産ブドウが不作で、すごい高値で売れたことがあり、一夜にして大金をつかんだと言っていました。
また、その後、世界最大のイグアスの滝へ行くついでに、その後に開拓された日本人入植地イグアス移住地(首都アスンシオンから東へ約300km、ブラジルとの国境に近い)を訪れました。そこでもまた一世の方に話を聞くことができました。
この方は、北海道の士別出身であり1958年(昭和33年)にパラグアイに来たそうです。その方は、赤土のあるところを選んで土地を購入し開拓を続けたそうです。この赤土は、石がなく、大豆の栽培に適しておりさらに不耕起栽培法を導入、今では450町歩の畑を大型コンバイン2台で経営する中規模大豆農家だそうです。移住成功者の方に話を聞いたわけですから「パラグアイに来てよかった」が連発されたことは当然でしょう。
いずれにしても、日本人入植者のパラグアイ農業への貢献は偉大なものがあり、ほとんどパラグアイで作れなかった野菜類を自給できるようになり、大豆にいたっては世界第5位の生産国になり、主要輸出品でもあります。
写真1
パラグアイへの入植者一世の話を聞く(ラ・コメルナ入植地で) ぶどう畑が当たって成功した。奥さんは、パラグアイに来る前に養子縁組して連れてきたそうです。ぶどうをご馳走になりました。
写真2
イグアス入植者の大豆畑の刈入れ (2009年2月撮影) (今年は干ばつで出来があまり良くなく、さらに現在の不況で大豆の販売価格が値下がりし大変であるとのこと。現在ブラジル資本が投入され大規模大豆畑栽培がなされて、その栽培の80%がブラジル資本とのこと。)
廣瀬 靖夫 (シニアボランティア 環境工学)