地球探検 パラグアイ共和国 廣瀬靖夫隊員 22
パラグアイ通信(22)
前回、前々回と日本人移民者の話をしてきましたが、今回は農業国パラグアイを支えているもう一つの重要な移民集団についてお話しましよう。メノニータと呼ばれる、ドイツ生まれのキリスト教の一つの宗教集団です。
彼らは平和を愛し、徴兵制があってもそれに参加することを拒否してきたために、ドイツ・ロシア・カナダなどの国々を転々として、ついに1927年、当時のパラグアイ政府と移民協定を結んでチャコ地方に住むことになったのです。チャコ地方というのは、パラグアイ国をパラグアイ河が北西部と南東部に分断していますが、その河の北西部一帯を指すのです(通信(18)の地図参照)。
ここは農作物の栽培に適した南東部と異なり、土地は塩分を含み、雨の少ない原野なのです。この悪条件の中で、メノニータは牧場をつくって牛を飼い(牛には塩が必要)、雨水をためて生活水・畜産工場の水(写真1参照)として利用して、現在ではスーパーにおろす牛肉・牛乳・チーズその他の乳製品を全国的に供給するまでになったのです(海外にも輸出をしています)。このチャコ地方は、自然がそのまま残っていることから、自然とメノニータを見に行くツアーを計画して先日チャコに行ってきました。
首都アスンシオンから北へ約400kmから450kmのところに、ロマプラタとフィラデルフィアと言う町があります。町の中の道路につけられた道路の名前はドイツ語らしく、町で話す言葉も多くはドイツ語が聞こえてきました。
町の中の人たちも白人が多く見られたので、メノニータの観光職員に移民者がパラグアイ人と結婚する割合はどのぐらいかを尋ねたところ、1%以下とのことでした。宗教が異なるとなかなか結婚できないとのことです。だんだん血が濃くなってくると外から移民を受け入れてくるとも言っていました。ちなみに日本人移民者は10%程度が混血だそうです。
このチャコ地方の領有権をめぐって、北の隣国ボリビアと大きな戦争が1932年から1935年にありました。当時からボリビアでは石油の採掘をしていましたが、ボリビアがチリとの戦争で太平洋岸に面した土地を取られてしまい、石油積み出しのルートをパラグアイ河に求めたとのことです。さらにチャコにも石油が在るとみこんで、ボリビア側から仕掛けた(アメリカ合衆国議会での証言もある)とチャコの戦勝記念館の案内人は言っていました(写真2中央の人)。 そしてその石油が本当にチャコ地方にあるらしいのです。十分な採掘量があるとすれば、このパラグアイも一気に最貧国からの脱却が可能なのでしょうが?
写真1
雨水の溜め池(雨は右上の写真の様に畑の畝のように作って若干の傾斜を作って雨を集め、集まった雨を電気によるポンプか、風車のポンプかで溜池に汲み上げる。この溜池の水は塩分を含んでいないが、地下水は塩分を含むので利用できない。)
写真2
チャコ戦争(1932~1935)戦勝記念モ二メントの前で ボリビアがこの地に砦を築いていたのをパラグアイが攻めて陥落させた激戦地跡
廣瀬 靖夫 (シニアボランティア 環境工学)