二、県道赤留塔寺線沿線の魅力 9.塔寺、気多宮の宿場の賑わい
二、県道赤留塔寺線沿線の魅力9 塔寺、気多宮の宿場の賑わい塔寺より磐梯山を望む 塔寺は坂下よりも古い宿場である。坂下は慶長十六年(一六一一)八月二十一日の会津の大地震によってそれまで越後街道だった勝負沢(会津坂下町宇内)が山崩れで通行できなくなった。そこで、新たに鐘撞堂峠を開削して道を作ったのである。 若松城下から高久を経て大川の渡しを越えて、細工名に出て坂下、塔寺へと新しい越後街道が誕生したのである。坂下の宿はこの時から急激に繁栄するようになったのである。それに対して、塔寺は柳津道の宿場として古くから隆盛を極めていた。新街道が出来てからは、柳津道と越後街道の分岐点として栄えていった宿場であった。 心清水八幡神社と吉田松陰心清水八幡神社勿論、惠隆寺、心清水八幡神社の門前町として殷賑(いん しん)を極めていたことはいうまでもない。江戸時代になると、さらに活気を呈し、往来する旅人の群れは途切れることなく続いた。嘉永八年(一八五二)二月六日には吉田松陰は『東北遊日記』の中で「若松を発し、高久、坂下を経て塔寺に至る。行程三里廿四丁、皆平坦の地なり」と記している。 そして、吉田松蔭は、日新館教授高津淄川(しせん)の紹介によって、高津の甥に当る戸内兵庫が神官をしている心清水八幡神社を訪れている。ここで現在当社の貴重な宝物とされている『塔寺八幡宮長帳』(松蔭は『芦名日記』といっている)を見せてもらっている。滝沢洋之氏によると、「戸内兵庫はわかり易く説明するために、これは芦名時代のことを記した日記ですよ、といったのを松蔭は『芦名日記』と聞いたものと考えられる』(『吉田松陰の東北日記』)という。 源義家の矢が落ちた所に清水心清水八幡神社は会津の五大社の一つである。祭神は誉田別尊(ほん だ わけの みこと)(応神天皇)、息長帯比売尊(おき なが たら し めの みこと)(神功皇后)比大神である。天喜三年(一〇五五)源頼義が山城の石清水八幡宮を勧請して戦勝を祈願したのが創始である。同五年には社が建てられた。その時に幾多の伝説が残っているが、その一つを述べてみよう。 源頼義とその子八幡太郎義家が安倍氏と戦ったとき、義家は眼病を患い、ある夜夢枕に立った神が「お前の弓矢をもって巽(東南)の方に向かって矢を射よ。その矢が落ちた所に神泉があるからその清水で目を洗えば必ず治る、ゆめゆめ疑うな」とのお告げがあり、矢を放って落ちた所に行くと泉の辺りで矢を発見した。その清水で目を洗ったところ、日ましによくなったという言い伝えがある。 中世一級の史料『塔寺八幡宮長帳』二月の初卯の日は八幡様の縁日で賑わう。この神社は戌、亥と卯の歳の守り神である。ここには中世の史料としては第一級の『塔寺八幡宮長帳』(国重文)が大切に保管されている。貞和六年(一三五〇)から寛永二年(一六三五)にわたる二八六年間の神社の年日記で中世以降の信仰生活を知る上で貴重なものである。裏書には会津は勿論、畿内や鎌倉などの社会の動きが断片的ではあるが記載されている。 会津で最古の寺院、恵隆寺恵隆寺(立木観音堂)惠隆寺の始まりは「舒明天皇六年(六三四)高寺開山教師惠隆、南岳惠志の弟子なり」(『新宮雑葉記』)とあるが、これは伝承の域を出ていない。しかし、会津で現存している寺院の中では最も古いとされている。伝説の寺、高寺が栄えた頃、この地には高寺への本道があり、大門があったという、現在も「大門」の字(あざな)が残っている。そして、村内に金をちりばめた壮麗な塔があったので、小金塔村と言っていた。後、徳一が再建しているが、現在地に移ったのは、もっと下がって建久元年(一一九〇)のことだった。
日本最大級の木造観音立像木造千手観音立像(立木観音)惠隆寺といえば、まず「立木観音」である。身の丈二丈八尺(約八・五メートル)の日本最大級の「木造千手千眼観世音菩薩立像」である。床下に根がいまなおあるといわれている桂材の一木造りである。薄暗い堂の中に入ると、天井を突き抜けるかのような巨大さにまず圧倒される。古の里人は、迫りくるその体躯に恐懼し思わず低頭したことだろう。 さらに本尊をはさんで、その周りには眷属として二十八部衆と豪快な感じの風神、雷神合わせて三十躯が守り寄る群像は圧巻である。雄大な観音像に調和している守護神は見事というしかない。そして、これらをつつみ込むように茅葺の観音堂が建久年間(一一九〇~九九)に建立されて以来、幾年月の風雪に耐えて来た年代ものである。いずれも国の重要文化財に指定されている。 多くの仏像群、聳え立つ古木、すべて壮大かつ素朴な性格を表す古刹である。抱きつき柱にしがみついて「目をつぶらず観音様のお顔をじっと見て心願して下さい」という住職の言葉を聞いて、抱きつき柱に抱きついて願い事をする善男善女の姿が絶え間なく続く。 なお、惠隆寺の東側には国指定の重文である「旧五十嵐家住宅」が中開津村から移築されてある。享保十四年(一七二九)に建てた住宅で、この地方の典型的な本百姓住宅として価値の高いものである。 千手観音眷属(けんぞく) 旧五十嵐家住宅
春日八郎と縁の深い寺亡き歌手の春日八郎はこの寺と関係が深い。この近所に家族が住んでいた縁で、先代の住職はいろいろ面倒を見ていたらしい。父親はそば打ちの名人で、母親は和裁の名手で花嫁衣裳を一手に引き受けていた。春日八郎の少年時代は大変な腕白で、現住の藤田正盛氏は家来にされていた。歌手として不遇な時代にも先住は物心両面でよく援助していたので、八郎は会津に来ると必ずこの寺に寄って挨拶をしていた。苦労して大成した彼は、人の恩義をいつまでも忘れない男であった。 柳津道と越後街道の分岐点気多宮気多宮の街並 分岐点標識塔寺の西に近接している気多宮は江戸初期に越後街道が鐘撞堂峠を通るようになって、栄えた宿場である。越後街道と柳津道の分岐点となり、追分の碑文が建てられてある。高さ約一メートルの「右是より越後路」「左是より柳津路」と彫られた碑文である。寄贈者は伏見の住人、坪谷村兵衛、筆者は会津藩士の鯨岡平右衛門で、元禄の頃建てられたという。この宿場は、特に旅人相手の茶屋・菓子屋・飴屋・酒屋・旅人宿などがあって飯盛女も置いておく宿もあった。江戸から明治にかけて繁栄し、特に、只見川を下ってきた筏師がここまで来て宿泊することも多く、活気を呈していた。
昔の面影偲ぶ束松峠束松ここから峠を下ると船渡と片門の渡し場になり、そこから「束松峠」の茶屋を経て野沢の宿まで絶え間なく旅人の群れや荷を運ぶ馬が通っていた。〈束松〉という名はこの峠付近には赤松の老松があり、枝がすべて上方に箒を立てたような姿をしていたので束松と呼んでいた。峠の旧道は唯一の一里塚が一対残っている。戊辰戦争前後には秋月悌次郎胤永を初め東奔西走する人がここを往来していた。峠の茶屋が二軒、明治の終わりまで存在していたが、藤峠の新街道ができてからは衰退してしまった。今その面影を残している旧道を偲ぶ心ある人々が時折訪れている。 数々の文化財残る上宇内薬師堂上宇内薬師堂 木造薬師如来坐像この塔寺の宿場の北、二キロほどの上宇内には有名な薬師堂があり、多くの人々がしきりに訪れている。寺伝によると、大同年間(八〇六~一〇)に徳一大師が惠隆寺の東方仏として、五尺八寸(一七六センチ)の木造薬師如来坐像と脇侍の日光、月光両菩薩とを高寺三十六坊の一つである調合坊に安置したという。いわゆる「高寺おろし」と呼んでいる一つである。後、この調合坊は瑠璃光山調合寺として独立したが、時代とともに堂宇は朽ちて荒れ果ててしまった。元禄四年(一六九一)道安が再建した。堂の北東に中興の僧として道安の墓碑を建てその威徳を称えたのである。 この薬師如来坐像は欅の一木造りで通肩の衲衣をまとった実にどっしりとした威容を示している。勝常寺の薬師如来坐像(国宝)に通ずるところがあるが、衣文の彫りなどはずっと浅い。薬壷、光背、台座などは元禄期に補修したものである。 堂内には元禄の再興時に修復された十二神将が五体ある。そのうち四体は邪鬼を踏んでいるが、同じ一本の木で本体と繋がっている。もとは四天王ではなかったかともいわれているが、腰を捻っていることから本尊と同時代のものを改作したという説もある。
一見すべき会津の古絵馬古絵馬(三番叟図)特にここで注目すべきものは、この堂内に納められている「古絵馬」である。元禄から宝永にかけての年記のある絵馬で県の指定重要有形民俗文化財になっているのが六面ある。浮世絵風の明るい風俗画で、「見返り美人図」(元禄七年作)はその特徴がよく出ている。さらに「三番叟図」、「天女図」二面、「参詣図」、「一ノ谷敦盛図」がある。一見すべき会津の代表的な絵馬である。その他に、指定外の三十六面も同時代のもので図柄は神馬、鶴の動物図や武者絵、力士図などがある。ただ残念なのは、元禄六年作の「藤娘図」が昭和の初めに失われたことである。古絵馬中、最も評価の高いものだったが、それを見ることが出来ない。
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