県議会の沿革
明治11年~大正
【明治11年】
1月に全国に先駆け、民会規則(県独自の規則)を公布し、6月には民会規則による最初の議会が開かれました。これは、当時の自由民権運動の成果と県令(知事)の英断により実現したもので、他県には例がありません。県令 山吉盛典、権参事 中條政恒、そして中條から民会係に任ぜられた河野広中がその中心となりました。当時の議員定数は68人で、各区会議員により互選されました。
福島県民会規則 中條政恒
西蓮寺(福島市大町)
本県最初の県会の議場となりました。
常光寺(福島市清明町)
明治10~11年に数回開催された県会の準備会の会場となりました。
【明治12年】
1月に民会規則を廃止し、府県会規則(太政官布告)が施行され、6月には府県会規則による最初の県会が開かれました。議員定数は62人、選挙権は郡区内に本籍を持つ20歳以上の男子で、地租10円以上を納める者とされました。
議会の組織は、議長、副議長、常置委員、組幹事、調査委員を議会の選挙で置き、給与は常置委員を除き無給でした(ただし費用弁償は支給)。
【明治14年】
4月の臨時会で、議長(河野広中)の提唱により「県会議員選挙法更正の建議(普通選挙法の実現要求)」を議決し、政府に施行を要求しました。
河野広中
【明治15年】
三島通庸
4月に県会議事堂が新築されました。
5月通常会で、県会は県令(三島通庸)と対立し、議案毎号を否決することを決議しました。
12月には、県自由党幹部河野広中らが、政府転覆の盟約作成の容疑で逮捕されました(福島事件)。
【明治18年】
3月通常会で、議員の発言(県の説明は信用できない)が、官吏侮辱罪に問われ、投獄されるという事件が起きました。
【明治31年】
2月に、明治23年公布の府県制を施行(議員定数68人から36人に減員など)。12月通常会で知事不信任決議案を可決。知事は県会を解散。本県における県議会の解散はこれが初めてです。
明治34年3月に県会議事堂(第2次)が新築されました。
県会議事堂(第二次)
議事堂看板
この二つの門標は議事堂が新築されたときより議事堂に用いられたもので、右は(うすくなっていますが)「県会議事堂」と書いてあり、明治15年4月より、左は「福島県会議事堂」と書いてあり、明治34年3月より用いられていたものです。(資料展示室に現物あり)
【明治44年】
10月に福島停車場事件(政党勢力争いによる県会大乱闘)が起きました。
大正3年4月に府県制が改正され、議員の会議開会の請求が認められました。
【大正15年】
6月に府県制が改正され、普通選挙制が採用され、自治権が拡張されました。
昭和
【昭和2年】
9月に普通選挙による最初の県会議員選挙(第20回)が行われました。定数は42名でした。
【昭和14年】
9月に行われた第23回県会議員選挙は、戦前最後の選挙となり、昭和22年4月まで任期が延長されました。
【昭和18年】
府県制が大改正されましたが、これは太平洋戦争中の国家統制強化の一環として地方制度全般の逆行的改正でした。
【昭和20年】
戦後初の県会として、11月通常会が開かれました。
【昭和22年】
4月に府県制が廃止され、地方自治法が公布。現在の県議会が設置されました。議員定数は59人でした(現在は58人)。
【昭和29年】
現在の議事堂 東玄関
4月に新しい県庁舎(現本庁舎)が落成し、県議会も新装の議事堂(現在の議場)で行われるようになりました。
【昭和53年】
民会規則による県議会開設から100周年を記念し、県議会百年記念式典が執り行われ、現在の資料展示室や県議会の森が設置されました。
県議会百年碑 河野広中銅像