二、県道赤留塔寺線沿線の魅力 9.塔寺、気多宮の宿場の賑わい
二、県道赤留塔寺線沿線の魅力古墳や遺跡の多い地域亀が森・鎮守森古墳 陣が峰城跡会津坂下町は古墳や遺跡の多い地域でもある。広瀬地区の青津にある〈亀ヶ森古墳〉は東北で二番目に大きな規模を誇る古墳である。全長一二七メートルの前方後円墳で、完全な形を残している。この古墳の近くにある〈鎮守森古墳〉は全長五五メートルと小さいが墳丘の保存状態は良好である。 坂下の西端にある〈杵ガ森古墳〉は県内でも最古の前方後円墳の一つで、墳丘の長さが四六メートル、高さは二メートル、四世紀頃の築造という。上宇内薬師堂の近くには最近発掘された〈陣が峰城跡〉が国史跡に指定された。この遺跡は平安末期から中世初頭のものとしては貴重な遺跡で、豊富な遺物が多く出土している。
〈坂下〉を〈バンゲ〉と読めるか塔寺の東にある坂下宿は新街道ができてから非常に繁栄した。坂下を「バンゲ」と読むことは他所のものにとってはなかなか出来ない。バンゲとはバッケの訛ったものだといわれている。この「バッケ」とは〈断崖となっている地形〉という意味で、この辺の地形からでた語だという。 昔、坂下地方は水利の便の悪い所であった。その頃、現在の定林寺の辺りに、笠松舘主だった平田盛光が灌漑堀を掘って田を開こうとし、稲荷に願掛けの御蔭で、夢に見た白狐の足跡を辿って行くとそこが川の形になっていた。そこで八年の年月を費やして約十キロにわたる堀が完成し、人々はそれを「栗村堰」と名づけたという。これは栗村の舘主が通称、栗村盛光と言っていたために付けられたからある。今、定林寺の墓地に墓がある。 戊辰戦争の女傑中野竹子の眠る墓(昭和の大作曲家 猪俣公章の眠る墓)法界寺坂下の宿場の町割りをみると、現在の表通りから北側に細道が東西に続いている。そして、この通りには面白いことに、旧坂下村の寺の五ヵ寺がすべて存在しているのである。東から西に述べて行こう。 まず東端に虚空山法界寺(曹洞宗)がある。永享十年(一四三八)の創建。この寺を一躍有名にしたのは戊辰戦争で戦った女傑、中野竹子の墓があることである。中野竹子は才気煥発、容姿端麗で文武に秀でた典型的な会津の武家娘だった。藩主の義姉、照姫の薙刀指南役の赤岡大助に七歳から薙刀を習っていた関係からか、赤岡家の養女になった。しかし、気の強い竹子は大助の甥との結婚を嫌って中野家に復縁する。 戊辰戦争の時、二十二歳の竹子は十六歳の妹優子と城に駆けつけたが、城門は堅く閉ざされていた。そこで照姫が乳母の家の坂下に退かれたというので、坂下へ急行した。しかし、姫の姿は見えず、この法界寺で一夜を過ごした。翌旧八月二十五日、若松の西、越後街道の涙橋付近で長州、大垣の兵と出遭って壮烈な戦いとなった。 敵は女と見て生け捕りにしょうとしたが、竹子は髪を短く切り薙刀を振りかざして奮戦した。不運にも弾丸が竹子の額に命中し、血で草を真っ赤に染めた。妹の優子を呼んで「敵に首級を渡すな」といって介錯を命じ、泣く泣く優子は首を打ち小袖に包んで坂下の法界寺に葬ったのである。一説には農夫が敵に奪われないため持ち帰ったともいう。後に上野吉三郎という者が手厚く葬った。 明治二年、越後の澤田、横井の両氏によって墓碑が建てられた。辞世の歌は もののふの猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも この歌を書いて短冊の柄に結びつけてあった。 竹子の号をとって「小竹会」が昭和四十三年に結成され、毎年九月十日に竹子顕彰会とともに墓前祭がしめやかに行われている。墓は本堂の前にあり、「小竹女史之墓」と記されている。戒名は「美性院筆鏡秀烈小竹大姉」である。 版画家斎藤清の墓所ある光明寺光明寺坂下は街道筋の商人の町でもあった。その町民文化を色濃く残しているのが正覚山光明寺(浄土宗)である。この寺は、元亀二年(一五七一)岌岸上人の開山である。寺の位置は東から二番目にある。ここには入母屋造、重層楼門の四脚門の形式をとる立派なものがある。町の指定重文になっている。前庭には萩の花がたくさん植えられていて、坂下の萩寺とも言っている。 墓所には有名な版画家の斎藤清(平成九年逝去)夫妻と両親の墓がある。彼の描いた「会津の寺」シリーズの一つに「坂下・光明寺」を描いた二点の版画が奉納されている。そのうちの一点は光明寺の山門で、もう一点は境内の六地蔵である。いずれも雪にすっぽりと埋まった絵で、情緒深いものである。 坂下は江戸期から大そう俳諧の盛んな土地であった。五十嵐茶三(清兵衛)、秋田斗南、の町人たちが活躍していた。山門の脇には、五十嵐茶三(石華斎)の辞世の句碑が建てられてある。石華斎は文化五年(一八〇八)坂下、新町の油屋に生まれ、俳諧を高田の田中月歩に学びこの地方の文化人として多大の影響を与えた。辞世の句「地に下り遠き巣に行く雲雀かな」である。 山門の左には小滝稲荷が祀られてある。子どもの夜泣きに効き目があり、油揚や煎豆などのお稲荷様の好物をあげて拝むと夜泣きがピタリと止むという。酒に酔った男がこの稲荷に放尿したところ、急に気が変になり一夜中田畑を歩き廻り腰から下はビショ濡れになり、しかも、狐の毛を着物に付けて帰ってきたという言い伝えが残っている。 夢のお告げで隣の寺に移った聖徳太子像町の中央の茶屋町には攝取山光照寺(浄土真宗)、長光山貴徳寺(浄土宗)が道路を挟んである。光照寺は永禄二年(一五五九)の建立で、聖徳太子に縁のある寺である。境内の南側に立派な太子堂が建立されている。ここに祀られてある聖徳太子像は初め、東隣の光明寺に祀られていたが、三晩続けて夢の中で「光照寺に移りたい」という聖徳太子のお告げを住職が受けたのである。光照寺の住職も同じ夢を見たので、両寺檀家が集まってお移しするしかないといって納めたという話が伝わっている。今その享保十七年(一七三二)の「譲り状」が残っている。坂下は火災の多い所から「火除けの太子」ともいわれご利益があるという。 なお、この寺の寺宝として県の指定重文となっている「絹本著色光明本尊」が残っている。光明本尊とは六字、九字、十字の名号を中心に、その左右にインド、中国、日本の浄土関係の祖師の系譜を描いた浄土真宗独特の画像である。ここのは十字の名号で、鎌倉末期の作で、光明本尊としては最古のものといわれている。 堀部安兵衛の父母を祀る貴徳寺貴徳寺茶屋町の道の西側には南北朝に建てられたという貴徳寺がある。ここは忠臣蔵で有名な、堀部安兵衛ゆかりの寺である。越後の新発田藩士だった父、中山安太郎が芸者小菊(お絹)といい仲となり、勘当される。そこで下男の茂助が住む坂下の地にやってきたが、家が狭いのでこの寺の一室を借りて住むことになった。寛文十年(一六七〇)安兵衛が生まれるも、幼くして父母を失う。父の法名は「真覚幻夢居士」である。昭和四十年六月には「安兵衛両親墓地修補法要と安兵衛生誕碑の除幕式」が挙行された。その誕生碑は門の前に設置されている。この時、堀部の親戚にあたる末永精氏が飯坂から来て参列されている。毎年十二月十四日の討ち入りの日には追善供養と縁のある蕎麦会を催し、安兵衛ファンが多く集まる。 有名な書家の墓字のある定林寺定林寺坂下の西にあるのが益葉山定林寺(曹洞宗)である。永仁四年(一二九六)芦名氏の重臣、栗村弾正盛俊が塩川の七之宮からこの地を領有して、笠松舘を築き栗村舘と称した。寺の墓所には「定林寺殿一麟統公腰居士」と「本了院殿大峻性休居士」の二人の戒名が刻まれている。 この寺の墓所には有名な書家の手になる墓字が見受けられる。墓地の西南の隅には、明治・大正時代に活躍した画家で書家でもある中村不折の筆になる墓石がある。これは不折と知己であった、故高久學之助氏が特に依頼して書いてもらったものである。高久家は神道であるが、寺に土地を寄進したことからこの寺の墓地に高久家の奥津城が建てられている。故高久英雄家の墓字も中村不折の筆になる。さらに、龍川清氏の墓字も日本芸術院会員の上條信山氏の字である。線に勢いを感じる見事な筆跡である。地元の書家の故荻野耕古氏の直筆のものも散見され、書道に関心のある者にとって見逃せない書跡が多くある。 陶芸家板谷波山の妻おまるの里この寺には陶芸家で初の文化勲章を受賞した、板谷波山の作品が数点残っている。波山の妻おまるは坂下町の鈴木作平の娘で、瓜生岩子の紹介で知り合って結婚している。その鈴木家の墓所が定林寺にあるところからおまるが実家に帰った時はよく寺を訪れている。 波山は芸術一途に精魂込めて精進するが、家計のことは関心がなく、一女五男を育てるおまるにとっていつも貧困との戦いであった。一時、夫の仕事を妨げないようにと三人の子どもを連れて、坂下町に帰っている。そこで、裁縫塾を開いて暮らしを助けていたことがある。 おまるは、強靭な精神力に満ち、豪放磊落、天真爛漫の性格は波山にとって頼もしい女房であった。里帰りするのに手ぶらでは帰れない。しかたなく、傷物として捨てていた作品の内、素人には目立たないものを夫には内緒で手土産に坂下に持ってきた、その幾つかがこの寺には残っているのである。中でも「葆光白磁(ほうこうはくじ)鸚鵡(おうむ)唐草(からくさ)文壷(もんつぼ)」や香炉類は価値が高い。なお、中政所の北外れにある定徳寺には、県指定重要文化財の「木造薬師如来坐像」が祀られている。この仏像はいわゆる「高寺おろし」といわれる古仏の一つで、丸く柔和な顔は人気が高い。 坂下の東南端には郷土の生んだ日本画家、小林五浪氏(故人)の記念館が最近、開館された。故人の遺志により建てられたもので、ささやかではあるが、立派でシックな建物の中に五浪画伯の作品が展示されてある。塔寺の惠隆寺には五浪氏とその弟子のグループによる三三反もの巨大な斗張が張られている。この寺の斗帳は三十年ごとに代えられ、著名な画家が今まで描いているが、最も新しい斗帳の絵を描いたのがこの小林五浪氏なのである。 会津の伝統野菜「立川ごんぼ」会津の伝統野菜「立川ごんぼ」会津坂下町の立川地区では、日本唯一のアザミ品種の「立川ごんぼ」が会津の伝統野菜として静かに脚光を浴びている。立川地区は砂地であるため、すらりと長く伸びて一メートルにも及ぶ。この牛蒡の真ん中を持つとしなる。香りも特有で歯ごたえもいい。葉はアザミ葉という日本には類のないものである。ただこの品種は連作がきかないので、収穫量が制限されるのである。なお、限られた収量なのですぐ売れきれるという欠点があって、耕作地を広めることに意を注いでいる状態である。また、立川地区の三橋さんたちはこれを機にグリーンツーリズムの実践を行おうとしている。
イサベラ・バードも通った道山手より坂下町を望む高田から坂下へのこの道は、明治時代の英国の女流探検家、イザベラ・バードが馬に乗って通った道でもあった。明治十一年(一八七八)六月二十七日、大内に泊まったイザベラは、通訳の十八歳の伊藤と馬で市野峠を下って高田に着く。翌朝、約千人の群衆に見学されながら高田村を出発する。坂下村へは水田の間を五時間かけて坂下の宿に着いている。彼女は「坂下は沼沢地の毒気があった。」と述べて印象が悪かった。イザベラ・バードが馬でつらい旅を続けた道も今では快適な道路となっている。歴史と文化、そして、暮らしの豊かな味わいある「会津いにしえ西街道」となったこの道は、再発見の旅を演出する街道として今後ますます魅力を増して行くことだろう。 BackCopyright(C)2007 Aizu-Inishie All rights reserved |