二、県道赤留塔寺線沿線の魅力 6.古くからの集落、勝方
二、県道赤留塔寺線沿線の魅力6 古くからの集落、勝方勝方寺前より磐梯山を望む 山の出口を表す出戸田沢を通過するとすぐ会津美里町から会津坂下町へ入る。最初の集落が勝方である。この村は昔「勝方(かち がた)七村(なな むら)」といわれるほどの大集落であった。西に山を背負い、東に広大な会津盆地を一望できる地で、富裕な村でもあった。そしてここから柳津に行く古い山道もあった。 「勝方」という名のいわれ勝方寺本堂「勝方」という地名のいわれについては人々の関心が高い。幾つかの伝承がある、「隣村の入田沢の鎮守様と大喧嘩して勝ったので名づけた」(井関敬嗣)という話などがある。すべて勝方側からの話なのであまり信用は出来ない。葦名時代には大河原土佐、薄様之丞という二人の地頭が住んでいたという。
戊辰戦争での一家自決の悲劇家族殉難(自刃)の地村の西端に慶雲山勝方寺がある。永正十一年(一五一四)、越後の耕雲寺十一世大沖元甫和尚が開山した。村南に高さ約一・五メートルの古い五輪塔があり、そこが古い寺跡と伝えられている。西の方の鬼渡地内で横穴二基が発見されている。 しかし、この寺を一躍有名にしたのは、会津戊辰戦争の時、この付近で一家が自決した悲劇によってである。この戦争でこのように一家が自決した家族がたくさんあったが、そのうち、町野、南摩の両家の家族もその一つであった。藩士や町人の家族が城下から逃れて疎開のため、または難民となって、在郷へ逃げ惑う姿は数知れずあった。塩川、門田、尾岐、旭、坂下等へと避難する人々の群れは長い列をつくって落ちのびようとしていた。 一方、西郷頼母一族を始め、屋敷に火を放って、自刃した藩士の家族も多かった。若松城内に入ることができずに敵西軍の目を逃れて行く哀れな女、子どもたちの姿があった。 砲兵一番組頭の南摩弥三右衛門の母勝子、妻ふさ子、弟の壽と辛、そして長男萬之助と生まれたばかりの次男の六人は坂下にやっとたどり着いた。北会津荒井村の出の忠実な下僕、清蔵のお蔭でどうにか勝方寺のあたりにやって来た。 その時、やはり避難していた市中朱雀二番隊頭の町野源之助(主水)の母きと子一行と思いがけず出合ったのである。町野きと子は嫁のやよ子、長男源太郎、長女なを等と難を避けて苦労してここまで来たのだった。町野きと子と南摩勝子とは姉妹であった。 そのうち、町野の下男が偵察から帰ってきて、誤りの情報を伝えた。「城も落ち敵が迫っている」との誤報を告げたのである。今はこれまでと、敵の辱めを受けるより自決した方がよいと考えた。一方、弥右衛門は傷を負って城内にいると聞いた。そこで、南摩勝子は嫁に向かって「あなたは萬之助と次男を連れて城に入り、義父弥右衛門の指示を受けよ」といった。 しかし、ふさ子はあくまで一緒に自刃することを願ったが、勝子は許さなかった。そして、下僕の清蔵に対して、ふさ子たちについて行くように頼む。泣く泣く嫁のふさ子は半月前に生んだ赤子を抱いて勝方の村を後にした。それは明治元年(一八六八)旧暦九月六日のことであった。 孫を刺しその血に染まった刃で我が胸を突く勝方寺隣の神社より翌九月七日、残った両家の八名は寺を出て西の裏山に登った。勝子は自らの手で孫の壽と辛とを刺し、その血に染まった刃で我が胸を突いたのである。町野家ではきと子は孫の源太郎となを子を刺し、源之助の姉ふさ子、嫁のやよ子ともども自刃する。後、南摩の下僕の清蔵は勝方に戻り、町野の下男と会って、両家族のあまりにも悲惨な最期を見て涙ながらに寺の僧の協力を得て遺骸を墓所に葬ったのである。 この両家の惨たらしい悲劇は勝方村の人々の涙を誘い、手厚く供養した。そこには貧弱な小さな墓石が寂しく建ててあったが、平成五年九月二十二日、殉難の地に立派な墓碑を建てて、除幕式がしめやかに行なわれた。 町野主水の孫である、井村百合子さんが先祖の殉難の地、勝方寺を訪れるたびに、その終焉の地があまりにも寂しいと感じていた。そこは老杉に囲まれた一角にやや傾いた墓石が苔むしていた。そこで井村さんはこの地を整備したいと思い、会津史談会の協力により建てたのである。勝方寺護持会の人たちによる参道補修や土止めにより、立派に整備されたのである。除幕式には、作家の中村彰彦氏がわざわざかけつけ参列した。 勝方の北に大村という集落がある。昔は台村と言っていた。田沢川という侵蝕台地の上にあったので、台村と称したという。山近くなので薪や柴などの林産物に恵まれた村であった。大村新田には縄文中期から後期にかけての土器や石器が出土している。また、西部山麓には前平山古墳群に円墳五基がある。
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