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一、「八反道」と呼ばれる古い道

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月1日更新
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一、「八反道」と呼ばれる古い道

菱沼公園より会津盆地を望む

蓋沼公園より会津盆地を望む

 県道赤留塔寺線(県道三六五号)は、重要な生活道路である。会津美里町高田と会津坂下町を結ぶ南北の道は、二つのルートがある。坂下の古坂下~羽林~金沢~新屋敷~境野~高田の現在の県道会津坂下会津高田線(県道二二号線)と、西の山麓の縁に沿った、塔寺~杉~勝方~出戸田沢~佐賀瀬川~米沢~雀林~赤留の県道赤留塔寺線である。  県道会津坂下会津高田線のルートは江戸期になって発達し、幹線ルートとしての役割を今でも果たしている。県道赤留塔寺線は、江戸期よりも古くから人々が通っていた道であったが、県道会津坂下会津高田線が徐々に改修されるにしたがって、忘れられてきたのである。ところが、点と点とを繋ぐだけの道から、県道三六五号線の改修により、線となって歴史の古道が脚光を浴びるようになったのである。

 今では忘れられている「八反道」という道名を地元の古老たちは口にする。野沢、塔寺、会津美里町の八木沢、赤留などにも八反道と呼ぶ道が断片的にある。 『会津坂下町史』の中で、   八反道とは塔寺から船窪、西牛沢、大村、勝方を通って田沢、米沢、雀林、赤留を過ぎて、高橋(会津美里町尾岐)に出て、さらに宮川をさかのぼって博士山の下を過ぎ、大芦(昭和村)から田島に出る道があったという。とにかくも西部山麓を通る間道である。この道は以前は勝負沢峠から上宇内、見明(みみょう)を経て塔寺に出て、前記の八反道に通じていたと考える。西部山麓を南北に縦走する極めて古い道筋である。 と記載されている。

会津坂下町より西部山麓を望む 会津坂下町より西部山麓を望む

さらに、『会津高田町史』では  いつの時代からの道か「八反道」と呼ばれる古い道が集落の西の山麓にあり、その一部が八木沢と雀林(いずれも会津美里町赤沢)に残っている。八反小僧という泥棒が、八反の布を腰に結んでもあまりの速さで走るから、布が宙に浮いて地に着かなかったという。栃木県今市から野沢にかけて、随所に似た様な名称があるので重要な道だったと思われる。 と書かれている。このことから県道会津坂下会津高田線よりも古くから多くの人たちが通った道であることが理解できよう。さらに、今の県道赤留塔寺線沿いのルートに見事に重なることもわかる。泥棒街道とは恐れ入るが、面白い伝説が伝わっていることからもこの道が裏の街道としての利用価値が昔から知られていたようである。時代が下がると、高田からは市野峠や結納峠、桧和田峠を経て大内の下野街道へと人々は歩いていったのである。  塔寺から南の杉・船窪・牛沢・大村・勝方等の山麓に残っている古道を今でも八反道とよんでいる。これこそ現在の赤留塔寺線の原形であって、この県道にふさわしい愉快な伝説をはらんだエピソードなのである。  また明治に入ってから、イザベラバードが新潟への最短の街道として選んでいる。彼女が記した『日本奥地紀行』にもわずかではあるが記載されている。

鐘撞堂峠より束松峠を望む 鐘撞堂峠より束松峠を望む

 「杉の並木道となり、金色のりっぱな仏寺が二つ見えてきたので、かなり重要な町に近づいてきたことが分かった。高田(タカダ)はまさにそのような町である」  「坂下に着いたのは六時であった。ここは人口五千の商業の町である」  「こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、山を越えるたびに視界は壮大なものになってきた。今や会津(アイヅ)山塊の高峰に近づいており、二つの峰をもつ磐梯山(バンダイサン) 、険しくそそり立つ糸谷山(イトヤサン) 、西南にそびえる明神岳(ミョウジンタケ) の壮大な山塊が、広大な雪原と雪の積もっている狭谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。これらの峰は、岩石を露出させているものもあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色におおわれている低い山山の上に立って、美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私が考えるところでは、ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性味を力強く出しているものであった。」  (第十三信 車峠にて 六月三十日)

怪盗・塔寺八反の伝説

赤留塔寺線 赤留の起点より塔寺へ 赤留塔寺線 赤留の起点より塔寺へ

 塔寺宿場の周辺には、「八反道」の名の残る旧道がある。この「八反」という名の由来について、会津坂下町の郷土史家、故井関敬嗣氏は、この八反道にまつわる話について、「怪盗・塔寺八反」のことを書かれている(『会 津坂下町の伝説と史話』)。  それによると、「塔寺八反」とあだ名された泥棒の名人が塔寺にいたが、その子孫は絶えてしまったという。この怪盗は物凄く足が速く、盗むとその日のうちに下野との国境の山王峠を越えて日光に行き朝市に出して金に換えて帰ったというが、眉唾(まゆつば)ものである。この塔寺八反はもともと盗賊ではなく、足早なところから飛脚を業としていたとも言う。或る時山中で追いはぎに囲まれ脅かされた。その時彼は右によけ左に走り、前にいるかと思えば後ろで大笑いするという早業に追いはぎはほとほと降参し「是非私たちの親分になってほしい」と懇願されて大泥棒になったという伝説も残っている。  一方、この地域で多くの土器や石器類が多種多量に出土していることから、古代から人が住み着いて、文化の程度も高かったことと思われる。そして、この沿線には古い社寺が点在し、癒しを求める人々がよく利用していた。  この街道は会津の文化発祥の地のみならず、暮らしの民俗、癒しの文化、豊かな産物、懐かしい田園風景を備えている地域でもある。東に磐梯山、北に飯豊山、南に博士山を望見でき、豊かな会津平野の四季折々の姿を味合うことができる。そして、これらを求める人たちを満足させるようにと、現在、人々は様々な地域づくりに取り組んでいる。

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