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二、県道赤留塔寺線沿線の魅力 1.赤留とその周辺(1)

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月1日更新
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二、県道赤留塔寺線沿線の魅力

1 赤留とその周辺

赤留より磐梯山を遠くに見る

赤留より磐梯山を遠くに見る

 赤留という名の漢字は当て字である。蒲生時代に「上留」と「赤留」とを併用していたことから、「アカル」「アガル」とよんでいたことは確かだ。この集落を歩くと、きつい坂道になっていることがわかる。だから「アガル」といっていたのだろう。また、西の山に水山という所があって、大量の水が出る。水のことを「閼伽(あか)」というので、赤を充てたのかもしれない。  赤留は江戸期から、軽井沢の銀山への道の南口に当たり、人馬の往来は激しかった所でもある。そして、柳津の福満虚空蔵尊圓蔵寺への参詣路の近道として通っていた。

会津文化発祥の地、会津高田

伊佐須美神社 参道 伊佐須美神社 参道

 赤留から二キロほど東には高田の町がある。ここは高度の差の激しい南北の一本道となっている。江戸期には宿場町として栄えた所で、会津文化発祥の地を象徴する伊佐須美神社がある。神話時代に大毘古命(おおひこのみこと)とその子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)とが出会った所から相津(会津)の地名が起こったという。 また、この両神は会津に稲作の技術を伝えたともいう。そこで、その出会いを記念して伊奘諾尊(いざなぎのみこと) 、伊奘冉尊(いざなみのみこと)を祀ったのである。毎年元朝詣には十八万人を超える参詣者がこの岩代国一の宮に押し寄せる。

伊佐須美神社とお田植え祭

お田植え祭

 七月十二日の日本三田植え祭の「昼田植」が古くから盛大に行なわれている。本殿での神幸祭の後、「獅子追い」の神事が始まる。ドンス、ユカタ、タスキ、鉢巻の祭姿で童子約八百名の獅子が八つの獅子頭を先頭に掛け声勇ましく走る行事は圧巻である。  獅子追いが動的な神事とすれば午後行われる神輿渡御は静的な行事である。デコ(田植姿の人形一一体)を中心に長い行列が、お囃子を唄いながら二キロ北にある御田神社まで続く。楽人の田植歌(催馬楽)を始めとして、佐布川の長男によるお田植え と早乙女踊りなどが行われる。この祭りは、稲作が始められた頃のことをリアルに表現しているのである。

金精さまと見事な藤の木

伊佐須美神社 桜門 伊佐須美神社 楼門

 東参道には「金精大国社」があって、女性たちが男運が開けるようにと拝んでゆく姿が時たま見受けられる。境内の東には神木として、有名な藤の木(県天然記念物)がある。五月半ばになると、榎木に蔓を巻きつつ天に昇る竜のようにも思われる紫の花が見事に咲く。人呼んで「紫竜」という。北側の社叢は神域になっていて、みだりに入ることが禁じられている。人の手が入らない自然林がまだ残されている。

フジ

フジの名木

 本殿東にある名木である。榎の木に巻きついて約17メートルの高さにまで伸びている。根回りは2メートルを超え、樹齢は300年以上ある との説もある。5月中旬には紫色の見事な花房が見られる。

 

 

 

 

 

朱漆金銅装神輿 (しゅうるしこんどうそうみこし)

朱漆金銅装御輿

 この神輿は室町時代の作で、時代の特色を良く示している一品といわれるものである。社伝によると、大永六年(1526)に高田館主芦名盛安とその嫡子盛常により寄進された。総高113・6cm、心柱54 ・5cmで屋根は宝形造銅板張り、四隅の先を蕨の手のような形にしている。その最頂には金銅の燕の飾りがついている。三方の壁面は銅版で、金銅輪宝紋を打ち付けている。柱は金銅丸柱、正面の朱漆金銅扉に「竪二ツ引紋」と「左三ツ巴紋」を打ち、四方の階段下には鳥居を建てて、正面には扉を設けている。伊佐須美神社に伝わる数々の宝物は宝物殿に所蔵されている。(有料)

 

 

薄墨桜

博墨桜

 神社拝殿の南西にあり、社記によると神霊が明神ヶ岳からこの地に遷座された時からのご神木だという。花は八重に一重も交わり、咲き始めは薄墨を含んだ白色で、次第に紅色を帯び、終わりは薄い紅色となる。会津五桜の一つである。

 

 

 

 

社叢

社叢

 この林は神社の神域なのでみだりに入り草木を採ることを禁じられていた。そのため杉が植生されている他は、人の手が入らな い自然林が残されている。特に宮川に沿う社地の東側は自然度が高く巨木も多く残っている。

 

 

会津五桜

 今から200年ほど前の『新編会津風土記』にすでに五桜が記されているので、いずれも相当な古木である。石部桜(会津若松市一箕町/エドヒガンザクラ)、薄墨桜(会津高田町・伊佐須美神社境内/サトザクラ)、虎の尾桜(会津高田町法用寺境内/サトザクラ)、大鹿桜(猪苗代町磐椅神社境内/サトザクラ)糸桜(会津坂下町・薬王寺境内/シダレザクラ)の5本。4月の中旬から咲き始める。

国宝一字蓮台法華経の龍興寺

経開結共(9巻)  国宝 一字蓮台法華 国宝 一字蓮台法華経開結共(9 巻)

 この地域は、古くから文化が栄えたからか、貴重な文化財がたくさん残されている。龍興寺は平安時代、嘉祥年中(八四八~五〇)の建立という古刹である。この寺には「一字蓮台法華経」が大事に保管されている。法華経の経文の一文字を一仏と見立てて彩色を施した蓮華座の上に乗せるように書写したすばらしい装飾経である。第六巻のみ欠けてはいるが、総字数六万九三八四字、心を込めて書かれた法華経の書はすばらしい。会津で二つある国宝の一つである。しかし、なぜか『新編会津風土記』にはこの法華経のことが記載されていない。「それが逆に好事家の餌食から守ったのだ」(田中塊堂帝塚山大学教授)という。湿気の多い日以外は予約すれば拝観が可能である。

 

 

 

 

 

天海大僧正生誕の地

龍興寺本堂 龍興寺本堂   天海大 天海大僧正両親の墓

 この寺には徳川家康を初め、徳川三代の厚い信頼を得ていた天海大僧正の両親、舟木兵部少輔景光夫妻の墓がある。一対の五輪塔で台座にはかすかに「景光」の名が見える。景光夫妻は長い間、子が授からなかったが、神仏への信心によって天海が授かった。十一歳の時この寺で得度し諸国に修行に出た。二十三歳で母の病気のため会津に帰る。この母は高田の領主芦名盛安の娘であった。その後、足利学校に学び、武田信玄に仕え信望が厚かった。また、祈祷師として優れた才能の持ち主で名声を博していた。  会津には芦名盛氏の懇請により会津稲荷堂の別当に迎えられる。母親が芦名に縁のあったことから伊達政宗に滅ぼされた芦名の最後の領主、義広を護って常陸まで送っている。比叡山を再興した後、川越の喜多院の二七世となり、上野の寛永寺を建てた。そして、天海は沢庵和尚や福島正則等のために罪を減ずるために奔走していることはあまり世に知られていない。また高田・冨川には、龍興寺の末寺福生寺があり、国指定重要文化財の観音堂がある。会津三十三観音二十七番札所でもある。

 

 

 

 

法幢寺の善光寺式阿弥陀三尊

法幢寺本堂と両脇侍立像 法幢寺本堂     銅造阿弥陀如来 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像

 明応三年(一四九四)に開山された法幢寺(ほうどうじ)には国指定重文の「銅造阿弥陀如来及両脇侍立像」がある。これは鎌倉期の善光寺式阿弥陀像の中でも極めて優秀な作と認められたものである。中尊は四八・八センチで向かって右が勢至、左が観音であるが、配列が置き換えられているのは珍しい。横から見ると少し前方に傾いている。来迎型になっている姿は何ともいえない神々しさが漂う。境内には樹齢百年以上といわれる百日紅(さるすべり)の木がある。晩夏になるとやや紫じみた桃色の花はこの辺りでは最高にすばらしいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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